2014年3月3日月曜日

伝説の作品を観に行ってきた。

もはや伝説と化しているアンディ・ウォーホル監督作、
『チェルシー・ガールズ』を観てきました。
DVD化されてないし(おそらく今後もなさそう)、
シルクスクリーン作品はよく開催されることがあるけど、
映画の回顧展はあまりないから観に行くなら今しかなかった訳です。

最終日&最終回、締めの作品が『チェルシー・ガールズ』ってのは、
昨年を最後に紅白に出ないって言って
トリをはったサブちゃんに近いものがあるね。(違うか?)
そんな訳で開始ギリギリに行ったら既に立ち見となっており、
劇場から支給された座布団を敷きながら鑑賞するという
これまた貴重な体験をしてきたのでした。

先日観た『ヌード・レストラン』とは違って、
『チェルシー・ガールズ』はシネスコサイズの2画面構成。
画面、右側と左側にそれぞれ別の映像が流れる。
ある時は両画面の映像から台詞が聞こえたり、片方だけだったり、
映像もモノクロやカラー、カメラワークもフィックスやズームなど
左右に映し出される映像に関連性はないのと同じくらい、
脈絡なく色んな映像技法がくり出される。

あ、内容はというと特になく、
チェルシー・ホテルの客室にいる人達を交互に写していくといった
インスタレーションに近い作品といったもの。
左右の画面に映される会話の中身も関連性がない。

マルチ画面という形式だと、
ミシェル・ゴンドリーが撮ったチボ・マットのMVや


ズビグ・リブチンスキの"NEW BOOK"とか探せば他にも沢山あるけど、
ここまで左右がまったく関係していないという作品は始めてでした。
最後だけ一応エンディング曲が流れていたけど、
それも思いっきり唐突にしかも最後ブツッと切れてたもんね(笑)
そういや、エンドロールやタイトルもなかったな。

多くの映画がカットの連なりで意味付けられていくのに対して、
ウォーホルのそれはカットはおろか、1ショットのどれもに
関連性がないという作品でした。
ここまで観客に関連づけられるコトを避けていると、
一体、どういう意図があるんだろうかと
逆に知りたくなってしまうという。。

人生に意味はない、
その人生を切り取っている映画だから映画も意味なんてないんだよ
とでも言っているんだろうか?(笑)

技法も面白い試みが沢山されてて、
被写体(もはや役者というニュアンスではなくなっているw)に映像を投影したりと
プロジェクションマッピングの原型の様なこともやっていました。
でも、それぞれ意味はないという。。。(笑)

作品事にカメラはおろか、サイズも構成も全く違うウォーホル作品。
映画を通して何かを物語ると言うより、
「映画で試されている技法自体がテーマを表現している」
って感じがした作品でした。

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