2018年1月20日土曜日

引退記事によせて

こういうコトを書くの久しぶりだな。
このblogはVJや映像制作に関してのコトを紹介するサイトだけど、
目線を広げれば表現に関してのサイトなので、
取り上げて見た。


小室さん、引退しちゃいましたね。
介護のストレスから発した精神的な拠り所を暴かれたワケだけど、そこまでやるか?って意見が大多数みたいね。

文春(というか他の週刊誌や昼のバラエティ番組も同じく)にモラルのないことは周知の通りだし、
潰せると発言する有名人もいてそれに同意する人も多くいる。

近年の不倫報道に疑問符がつくのは僕も多くの人と同じだけど、
出版社がなぜそれをやるのかって言ったら、
それを買う人がいるからな訳で。
TV局がなぜそれをやるのかって言ったら、
それを観る人がいるからな訳で。

確かにこういう記事は品がないなと思うけれど、
モラルだなんだと言ってもそれは個人的な感覚であって法律で定められた基準ではないと思うのね。
ベッキーの時も感じたけど、スキャンダルに対して快か不快かで判断するあまりにそれが基準になってきてしまっている感じがして、
(その快か不快かも表に出てくる時は"善"とか"モラル"という顔をして現れるのが厄介なトコロでね。)

じゃぁ、そういう記事を出す会社に抗議したり、不買運動をしたとして、
文春や下衆なメディアがこの世からいなくなっても、
"スキャンダルを見たいという欲望"が消える訳ではないので、
また別の文春的な存在が現れると思うのね
(そこでも結局、"善"とか"モラル"という名の快不快的感覚なのが厄介なトコロでね。)

ついでにもっと突き詰めて考えると、
仮に、その"スキャンダルを見たいという欲望"を表現の自由を規制する形で抑え込んだとしても、
どこか別の側面に歪みが生まれると思うのね。

"閉塞感"という形で。

結局、表現の自由が狭められただけという結果にしかならない様な。。

となると、この様な形で引退に追い込んだのは文春じゃなくて日本の社会なんじゃないのかなと思う。
(まぁ、きっかけ作ったのは文春なんだけど。)

で、その日本の社会を作っているのは?って言うと、、、ねぇ?
文春は私を含む多くの人達が望んでいる欲求に答えただけじゃなかろうか?
彼らにとっての日々の業務において。
(実際、彼らは同じアプローチで原発の問題に対しても切り込んでいる。)

だから、ジャーナリズムのあり方って何なのだろう?
表現の自由って何なのだろう?
と同じく何かを表現する立場の人間として深く考える。

善悪やモラルといった感覚が、重さの定まらない天秤の様に常に上下している日本で判断するのは難しいけれど
(キリスト教文化圏では善悪を宗教が教えるそうで、小さい頃からその基準があるんだとか。本当ですか?確かに一神教の国にありそうな感じね。。)
そういう社会において唯一出来得ることがあるなら、
自分と違う意見を持つ他者に対して"こんな考え方もあるのか?"という寛容さが
二元論でドツボにはまっていく社会の流れに対抗できる方法じゃなかろうかと
今回の記事を目にして想う

https://natalie.mu/music/news/265902

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