2017年12月17日日曜日

大げさな演技を見ながら感じた仮定について



前作『リアリティのダンス』が素晴らしかったのもあり、
続編も映画館でってコトで、
A・ホドロフスキーの新作『エンドレスポエトリー』を観てきました。

前作は「父親との過去をどう捉えるか?」ってことに重きを置いている印象だったけど、
今回はそこから一歩前進して、父親からの独立が描かれる。

前作同様に物語の合間に狂言回しの様に登場するご本人の語りが、
作品に独特な雰囲気を与えている。
文法とかセオリーをすっ飛ばして、
ある意味、ホドロフスキー自身の為の癒し映画って感じ。
それを観て僕らも癒されるという。。。笑

とにかく詩的な画造りは随所に観られるので、
ビジュアル的なことに関しては巷で目にする評論と僕も同じ。

それよりも観ながら感じたのは、
全編、演技がオーバーリアクションであるということ。

前作同様にお母ちゃんは全編なぜかミュージカルだし、
他のキャストも過剰な演技の人が多い。

もともとパントマイム出身の監督なだけに意図的に入れたのもあると思うけど、
これはスペイン語圏の人が観たらどう感じるんだろうか?
同時にこれを日本語でやった場合どんな反応があるんだろうか?
そんなコトを観ていて思いましたね。

当たり前に日本語を使っている僕らからすると、
自然な台詞回しが一番良いと無意識的に考えてしまっているけど、
こういう大げさな演技も表現の一つな訳で、
それ用いて『エンドレス〜』の様に詩的な作品として昇華するという
やり方もあるんじゃなかろうかと。

でも、これ日本語でやったら台詞回しが気になって
落ち着いて見れないだろうな。笑

ただ、そんな感覚が僕らの根っこにあるというのも
映画の見方を画一的な感じにさせていると思うし、
同時に創り手もアプローチが似通ってきてしまう原因にも
なっているのかなとアレコレ考えるキッカケになった。

そんなこんなで色々と気づきがある本作品、
ご興味ありましたら是非劇場に。

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